五之宮
金鑽神社 埼玉県児玉郡神川町鎮座 (延喜式内 名神大社・旧官弊中社)
祭神:天照大神 素盞嗚尊 配 日本武尊 (元の祭神は金山彦尊の説があり)
景行天皇41年の創立。
皇子日本武尊東征の際に火鑽金を御霊代として御室山に鎮座し、天照大御神と素盞鳴尊を祀り金鑽神社と称した。
貞観四年官社に列せられ、延喜式内名神大社に列した。武蔵野国二之宮である。
武蔵七党のうち児玉党の鎮守であり、徳川時代朱印三十石、明治十八年四月官幣中社に列格。
この神社は修験道の名残が強く、周辺には修験道の遺跡が残っている。
ご神体の御室山に連なる御嶽山には、中世期には御嶽城、近世期には法楽寺があり、大いに栄えた。
法楽寺は明治の神仏分離で廃寺。
また神社境内には国指定重要文化財となっている多宝塔がある。
天文3年(1534)に近隣豪族の阿保全隆が寄進したもので卒塔婆だという。
釈迦尊の骨を安置するものだ。
埼玉県内には卒塔婆が少ないため貴重な例だという。
「かなさな」というのは金砂の意味で、冶金にからむ地名である。
祭神は金山彦尊という説もあり、金屋という採掘・製鉄集団に関係している集落があった。
この付近には早くから渡来系の人々により製鉄製銅が行われていたようであり、元はそれにまつわる神様が祭られていた可能性もある。
近辺には和同開珎の出土した場所があり、銅の産出・冶金をおこなっていた場所であることに間違いはない。
渡来系の人々というのは、武藏国にはかなりその痕跡が残っており、かなりの勢力があったのではないだろうか。
埼玉では高麗という地名が残っているし、ここには高麗王を祀った高麗神社がある。
また、東京にも狛江市の狛は高麗と同意であり、虎狛神社というこれも渡来系の神社が近辺に存在している。
日本には現在の朝鮮半島にあった高句麗・百済から、かなりの人間が渡ってきており、日本という国を形成するにあたって大きな影響を及ぼしている。
ただし、この高句麗や百済は現在の朝鮮とは直接的な繋がりが無い。すなわち朝鮮人の祖先ではないのである。
なぜなら、国を滅ぼされ、追われてきた人々であるからだ。
当時の高句麗は、後に朝鮮半島を統一した高句麗(後高句麗)とは直接的に繋がりはない。
高句麗は満洲高原の騎馬民族で、ツングースのワイ族系の部族。満洲から朝鮮半島、遼東を支配した。
当時の中国文化を取り入れた強大な国であったという。
589年、中国大陸には統一王朝「隋」が誕生。
隋は国内兵力の大半を動員して、高句麗を攻めするも逆に敗北。
これが元で隋は国力が衰退していってしまい、ついには大唐帝国が出現。
この、唐が高句麗を再び侵略することになる。
唐は、当時、高句麗と同じく朝鮮半島にあった新羅(一時、日本が支配?)と同盟して高句麗を攻め。
また同じく朝鮮半島にあった百済(一時、日本が支配?)も攻め立てることになる。
百済は日本に救援を求めて対抗しようとしたが、白村江の戦いで唐・新羅水軍に敗北。663年に滅亡した。
高句麗も、668年に唐・新羅連合軍によって滅ぼされることになる。
百済・高句麗が滅亡するとき、多くの王族や移民が日本に亡命。
移民たちを安住させるために、高麗郡が武蔵国に新設されることになり、高麗神社などを創ることになるわけだ。
そして新羅は朝鮮を統一。 しかし後に、後高句麗、後百済を名乗る勢力が現れ、新羅王朝は衰退する。
高句麗や百済の人たちは独自の形式の名前を持っていたという。また言葉も独自であったとする話もある。
つまり新羅の統一以降が、現在の朝鮮に続く系譜となる。
だから、新羅統一以前の百済や高句麗は、現在の朝鮮人の祖とは言い難いのだという。
なぜなら、高句麗や百済は新羅に滅ぼされた国であるからだ。
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